昭和41年06月14日 朝の御理解
(出だし途中から)
信心をさせてもらわなければなりませんね。そして神様からも行き届いた、氏子の上に、お働き下さることもできれる、神様っていう方はいきとどいたお方じゃなあと、思われるくらいのおかげを頂かなければいけません。確かに神様がいきとどいてあるのに驚きます。ほんとにあの私どもの知恵力やら、思いでとても出来る事ではない。そのいきとどいたおかげをたとえばあの昨日でしたか。
あの久保山先生とここで話したことですけども、久保山先生どんなに考えても。本当にあの、例えばねあのお庭を一つ見せて頂いても、あの榊はあの榊の中心にありますけれど、まぁ私どもは、子供の時分からあの榊はございます。しかもあの場にございます。あの庭が一つあそこへ、あんな風にできるまでに神様が、あのいきとどいてござるにも、それこそもう隅から隅まで驚いてしまうくらいでした。
別にあそこに、庭師が入ってあの木なら木を剪定するわけでもない。なら自然に任せたんですけども、あの枝ぶりを一つ見てごらんなさい。もう何とも言えん、そのあの枝この枝( ? )眺めながら、それを話したことでございますけれども、それは庭だけのことではございません。もう椛目のお広前の隅々のことを考えてみてです、本当に神様いきとどいてごさるということを思わなければおられません。
昨日久しぶりで、あの本当に久しぶりであちらに今度参り、見ましたらまぁ随分仕事がはかどっとりまして、驚くほどにはかいっております。もう本当に見事に出来ていきよります。ここがどうのここがぁあのとか言うておりますけれども、本当にやはり井上組でなからな出来るこっちゃなか、設計士は古屋さんじゃなか出来るもんじゃないと、言う所がですね、もう何ともかんとも言えんその一つの私達が気がつかんところに、ちょうまえを持ってあの仕事が、あそこの御用が進められておる。
神様の行届いた働きが、末梢神経に至るまで、その行届いて下さっとるなっというなことを感じます。あれがいよいよ御成就にでもなったときには、もう本当神ながらなことだろうかなと。昨日もあの婦人部の方が、( ?)にあちらに行っておられました。私も一緒にあの二階から拝まさせて頂きながら、あそこ二階から眺めた方が1番ようごたるですね。子供達の部屋のあるところから、北の方をのぞきます。ほいであのお広前の東の方に(どじょうほう)の倉庫ができよりますですよね。
あれは大体大きな水槽ですよタンクあのよに置かれるために、もう大きな鉄骨を使ってから見てたんですけど、水槽はどうも水垢がついていけないて言う事になりましてね、であの取り止めになったんです。ですからここを何にするかって言う事になって、結局はあれはあのまぁ御造営後の倉庫にしようと。二階はあの修行生の方達がまぁ取り合えず休まれる所にするために、畳をひこうと下を物置にしようと。と言う事になったんですけど、もう本当にあの神様の働きご都合ちゃおそれいるですね。
あそこに成程これだけの大きな、お広前ができておるんですから、あの位ないうならばあの倉庫ていうですかね。( ? )かも知れませんがね、あれだけ頑丈なものがでけてきよるりますから。本当にあの神様の行届いておられるのが、只々おどろきます。あいなまぁ他のところから、どうとから考えましてもそれ感じるんですけどね、そこでそう言うまぁ事をいうと、まぁどげんなるかというとですね、お互いがです、一つ神様にその行き届いて頂くところのおかげを頂くために。
私共が本気で、その行き届かなければいけないと言う事です。私今思います、椛目のあの御用のために打ち込んで御用なさっておられる方たちが、もう本当にそれは行届いた御用ができられております。神様はあの人達のためにいきとどいて下さるようになったときに、たいした御ひれいを、たいしたおかげをみなさんが一人一人受けられることにであろうと私は思うのです。ね、皆さん一つもなま皆さんのですね、ここはこうすると良いと思うとるばってん、思うとるだけではいけません。
それを実際にせなきゃおられないというのが、いきとどいたのです。あそこはどげんなるっちゃろうかと心配する。ね、心配しただけじゃいけません。心配とは心配りと書いてある。心を配ってあるかないけません。ね、思うとります、祈っとるだけではいけません。いきとどかないけません。掃除でもそうでしょうが、草の集まりじゃいけません。いきとどいた、隅から隅までいきとどいた掃除ができる。行き届くと言う事お道の信心では、本当に行き届いた信心をなされます。
行き届いた事です。と言う様な事が、お道の信心の頂く、たら実意丁寧とはもう行き届く事だと言ってもよいくらいです。ね、ですから横着は許されません。せめてそれがあの神様へ向けられた時だけ、せめてお広前に向けられた時だけ、今の椛目でいうならば、せめて御造営のことに限ってだけは、お互いがです。いきとどいた、それこそ、私どもの宗教の限りをそこへ集中してです。
昨日も丁度、最後まで残ったのが菊栄会だけでしたけれど、御祈念がすんでからまた、1時間以上も検討いたし、今あの炊事場ですね、あの食堂とそれから炊事場と、それからあのかまどであのところの一生懸命。もうそこだけでもどの位あの特に中心に高橋さんが一生懸命御用させてもらいよりますが、どの位沢山の人の意見を聞いて回ったり、沢山のもうとにかくカタログだけでも、ようこれだけの店を回れたもんと言う位に、回ってそれはもう実にいきとどいたことです。もう驚くばかりです。ね。
そして佐田さんもご承知のようにまた、その非常に神経のこまい所に行き届く人です。特に高橋さんという人は。その上にそこんところ思いを集中してからの事ですから、成程本当に行き届いた事でございますよね。そこで私が思うのですが、そういう意味あいでははぁ行き届いた人と言う事は、生まれつきもよる事でございますけども、結局私共の結局それぞれの、頂いておるその心の限りを尽して行き届くと言う事なんです。だれの真似をせろ、だれの真似をせんならんと言う事ではありません。ね。
そこんところを私は一つ修行だと思うんですね。自分であぁこうと思いながらです、思うとるだけで、いや自分のせなんけんおおごとじゃからと、と言う様な横着は許されません。ね、ここはえらい( ?)ちらかっとると、ね、あそこにホウキの一つ持たせてもらう、雑巾の一つ持たせてもらおうと、そこのところをお掃除させてもらう、それをただ、横ぞに座って見ているだけではです、えらいちらかっとるとまで見ているだけではです、こりゃもう横着です。
銘々がですそう言う行き届いた神経を持って御用させてもらう。ね、だからここんところだけは、私共が一つ実意丁寧の限りを持って、行き届かせて頂く所の修行をさせていただかななりません。だからといってそれだけで(?)が受けられるのではありません。それが一つの根底になるのです。私今日初めてそのことを神様に頂いたんですけどもね、行き届いた信心とそれから先なんです本当は。けれ、ここんところが出来ずして、行き届く信心は出来はしません。どう言う事だと皆さん思いますか。
神様からこんど人間がの知恵力でする事でございますからですね、今私が申します意味合いにおいての行き届くと言う事はです、もう限りがあります。そうでしょうが。そこでですそこで神様がですね、一人一人のそういう氏子の上にお働き下さって、神様はその氏子に十二分にお使い回し下さる。もうお使い回しが頂けるところたったときに、初めていきとどいた御用ができるのです。ね。
ここに至ります時に初めて神様がです、行き届いたお働きを持って私共一人一人の上に( ?)下さるときなんです。そこんとこ皆さん分かるでしょうか。まぁ私の事言うておかしいですけど、まぁ私が善導寺で一生懸命御用させてもらいよった時分。いうなら修行中の時分です。ね、まぁ本当に自分ながら、自分ながらいきとどいてるんだるぐらいに、本当ありましたですよ。なら、それだけ、それだけではいけんのです。それがでけて、それが先がです、今度は神様から使えれると言う事。
神様が自由自在にあつかいになる事が出来ると言う事。時にはですもう神様の智を持って、神様の力を持ってです、私共の気が付かな所までです、神様御用にお使い回し下さるから、行き届いた御用が出来るのですよ。ね、神様が右を向けと仰っておるのに、左を向いとる。左向けと仰っても右向いとる。足上げろといわっしゃ手もあげとる。と言う様な事では、だからいけんちいうわけです。ね、そこで私共がですね、ここで本当に本気でそのきにならなけりゃならないことを。
素直にならなければいけないと言う事です。馬鹿程素直にならなければいけないと言う事です。走れ止まれ歩けと座れと向う向けあっち向けともう神様がですね、仰られる通りの事が出来る私になるという、ただの素直になればできるこっちゃないです。だからこの素直だけではいけんです。まぁその前提としてですたい。ね、自分の神経の限りの行き届いたいわば信心。例えて言うならば私が、お花はみんなが好きだ、自分でお花を作るのはもう大嫌いなんだけど、見るのが好きだ。
関さんなんかが世話しちゃる。又関さんなんかあぁして自分方に咲いた花を移り変わりに、そのあ持ってきて下さる。ね、永瀬さんなんかは自分が鉢植、あぁして自分で造るのが好きだから、ね、もう来ては手入れしよなさります。そしてもうあの見られんくなったら、また他の何か花束を取り替えて下さる。実に行き届いた事です。ね、そう言う様な事がです、もう何から何までできる人です。行き届いた人というのは。もうこれは例えば お供えしたっちゃけん、後はもう先生のいい事しなじゃるだろうと。
と言う訳ですもうじゃなくてからもう先の先まで行き届く人です、ね、いうならそういう行き届く人がです、それだけではあの人行き届いた人じゃったというてです、いわゆる人間思うだけであって、神様はそれを本当にいきとどいたと言う事ではないのですけれどもです、もう人間として人間的なですそういう本気で行き届かせて頂くと言う事がです、実意丁寧なのですから。ね、そこんところ実意丁寧に行じさせて頂いてです、いきとどかないけません。もう何かに( ?)ですよ。ね。
自分の心配りというならです、ね、もう心を隅から隅までくばらせて頂くということなんですよ。ね、そういう私はいきとどいた、いわば信心させて頂くと同時にです、本気で私どもが素直にならなければいけないということ。そして神様に隅から隅まで、神様からお使い回しを頂くということ、もうこれやったら完璧な、いうなら行き届く事になる訳なんです。そうでしょうが。ね。そこで素直にならなければいけません。同時にこの素直というだけではいけません。私はいつも言う。
本当に一つ限りなく美しゅうなりましょうやということです。ね、限りなく美しくならせていただこうという、美しくならせて頂くためには改まらないけん。美しくならせて頂くために、研かな美しくはなれん。ね、どうぞ神様よろしゅうお使い回し下さいと、私を空しゅうする。私を空しゅうして、ね、そこに素直になれる。ね、私いつも申しますように、御用させて下さい、例えば神様ほんならお給仕させて下さいと、いくら御用させて下さい、御用させてください、神様から使いまわしさえもらえばです。
神様から使い回しさえもらえば、神様が又(お父さん)とこに(色々)使う下さるんだと。だからもうどうぞ御用にお使い下さい、御用にお使い下さいというてもです、手は真っ黒に汚れとる、ね、着物に垢がついとる顔はいつもしかめた顔しとると言う様な、どうして神様がご給仕に使いなさいましょうか。ね、身なりもこざっぱりと。綺麗に手も清潔にしてある。それでお給仕の御用でもさせて貰うというなら、神様はつこうて下さりますけど、だからまず綺麗にならなんでけんということが分かるでしょうが。
御用に使って下さい、御用に使って下さいというただけでは、神様は使いしなさらん。ね、今日は皆さんその、行き届いた信心をしなければいけません。みなさんが行き届かないけません。ね、例えばなら私が、ここ何ヶ月ぐらい前ですかね、私はいつもあなたに感心しよったんですけども、ご本部にお参りさせてもらう。いつもあのお弁当は、十何年来あのむつやがうけもっとるんですよ。それけんあそこの、久保山先生のところの嫁の陽子さんが、それを担当しとるらしんです。
もう私はあのお弁当をいつも開くときに、あのその楽しみなんですよね。美味しいものが入っとるといじゃなくてですね、もうどれを食べても、柔らかなものに心が配ってあるということです。もう先生歯が悪かけんで、柔らか豆腐かなんか根性もんだけのものだけじゃなくたです、もうそれこそ食べたいものが沢山あるのに、それを( ?)用意してあるんです。しかも頂きよい様にちゃんと細かく切ってあるんです。まぁ例えていうなら行き届くと言う事はそう言う事なんです。
もうそれが隅から隅までそれを感じるんです。( ?)そげなんお弁当作るというだけのことではありません。もう一事が万事にそういう心配りをするということ。これでいわば人間的な意味合いにおいての行き届く。これが一つの根底にあらなきゃいけない。これが実意丁寧の、いわばなのだから、ね、そこんところを行き届かないかん。ね、そこんところを段々でけてくる。
と同時にです今度は神様が行き届かせて頂けれる、御用にお使い回し頂けるときにです、いわば隅から隅まで、人間の地位や力ではとても、こんなところでお使い回し頂ける筈がないやろうところにでん、お使い回しが頂ける。そんために先ず素直にならなきゃいけん。本気で神様のまえに素直になろうと、私は思わないけん。ね、というてなら御用にお使い回し下さいというてもです、ね、汚れぼうけておったんだはです、神様は今度神様の方が使いなさらん。ね。
ですからいわば神様の御用に使いわ倍行き届いた御用にお使い回し頂きたいならばです、ね、私は一つ限りなく一つ素直になると言う事と同時に限りなく美しくならせて頂くと言う事に勤めさせて頂いて、そしてどうぞ御用に使い下さいと言う事になるときに、私どもが隅から隅まで、これは私どもの智恵や力では行き届かん所まで、行き届いた御用にお使い回し下さるのです。私は今日の御理解を頂きましてですね、はぁ本当に行き届いた信心をせんならんと言う事が、本当の意味で分かった気が致しました。
何故神様があぁたまで磨けと仰るのだろうか。ね神様は私どものために、それこそ私共の夢にも思わなかったようなおかげ。いうなら想像もしなかったような世界にです、私ども住まわせて下さるようなおかげを下さるために、行き届いて下さるために、もう氏子のためにいきとどきたくてたまらんと、神様が言われて、行き届いたおかげをやりたいと思うてござるです、ね、そのために私共が、に行き届け、行き届けと言う事を仰るのである。そしていよいよ行き届くと言う事は神様に使い回される時に。
行き届いた御用がでけたと言う事になるのである。ね、本当に神様に使える人というのがありますよね。やっぱ美しい人ですよ。ね、こっちがにうかつにしとったっちゃ、神様が使いござる。ね、こちらの方が呼掛けてからでも、やはり使いござる。ね、そういう意味でですね、行き届いた信心をさせてもらわないけません。だから行き届くと言う事は、だから私どものこれは気の利いた、それはぼんやりした人、色々ありますから生まれ付き( ?)の人もあります。
けれどもそれはその人なりに一生懸命行き届こうと努める事だと言う事。それでいいんです。ね、そしてそれが行き届いたからというて、行き届いたおかげが受けられるのではなくてです、今度はその上にです、それから先にです行き届いた御用にお使い回し頂けるために私共はいよいよ、本気で信心の精進、限りなく美しくならせて頂くと言う事に焦点をおかなければならない。そしてどうぞ御用にお使い回し下さいと言う事である。そこに神様がですね、あなんと神様行き届いた事じゃろうかと言う様な。
おかげが私達一人一人の上に頂ける(ときなぁ?)、こっちが行き届かずしといて、ね、神様だけ行き届いたおかげば、行き届いて、神様働かせようとした所でですね、神様が行き届いたおかげを下さる筈がありません。ね、皆さんここんところを一つ繰り返し申しましたけれど、ね、本当に久留米の初代が仰ったという、人間の一握りっち言ったら是だけじゃけれど、神様の一握りと言われたらどれだけじゃら分からんと仰る。ね、どれだけは分からんという、そのおかげを頂くためにです、私共が先ずこの一握りを一生懸命にです、おかげを頂けなければいけんと言う事です。ね。
どうぞ。